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◆放出系
→オーラ(メモリ)の外在化(EOP化)が得意な念系統
一般的な読み方とは異なるかと思われるが、放出系の主たる能力はメモリの外在化かと思われる。
念は基本的にAOPの中で使役されるが、その考えだけでは放出系能力者がうかつにその能力を使うことが出来なくなってしまう。
例えば放出系能力者が念弾を放ちそれが相手の創る隔絶空間に取り込まれてしまった場合、そのオーラはどうなるのか。
ヂートゥ戦で示された様に、最悪そのオーラを回収できない可能性もある。
相手の能力が不明なのが当たり前であるが、もし全力で敵に念弾を放ちもしそれが隔絶空間に閉じ込められようものなら目も当てられなくなってしまう。
そうするとクロロVSシルバ&ゼノ戦で、
シルバがクロロに巨大な念弾を放っているが、もしこれが「不思議で便利な大風呂敷(ファンファンクロス)」で取り込まれでもしていたなら、シルバは一気に足手まといにでもなっていたのだろうか。
しかし、ゴンがジャジャン拳パー(AOP100%分の念弾)を放った場合、ゴンはその念弾が敵に当たってその目的を果たすか、もしくは能力を解除してオーラを回収するまで絶状態に陥るのかと言えば、
オーラ切れでそれは実現しなかったものの、作中のあいこの発想から“パー(放出)が生きている間にグー(強化)を打てる”ことが示されている。
つまり、放出系能力の基本的な性質(発)として、念の作業領域たるAOPから特定のオーラを切り離す、すなわち外在化(=EOP化)が挙げられよう。
そしてこの外在化は、基本的には放出系能力者のみが100%の威力・精度で扱え、それ以外の能力者はその相性に応じて威力・精度を減衰させてしまう。
◎単純乖離と放出乖離
これも当ブログの解釈上の造語です。
“オーラが手元から離れた状態”をメモリ的に連続性があるかどうかの区別をするためのものです。
つまり、オーラ(もしくはオーラ物)が手元から離れていたとしても、それがAOPに含まれるならば―放出系の威力・精度の減衰なし―単純乖離として、それがAOPに含まれないならば(EOP化されているならば)―放出系の威力・精度の減衰あり―放出乖離としています。
クラピカの自身の能力説明の中での、
“手元から離れた時点”使いものにならない程―強度も精度も落ちてしまう
という発言から、オーラ(オーラ物)は手元から離れた時点で放出系の威力・精度の減衰が入ってしまうと読まれがちだが、その割には作中でオーラ(オーラ物)を手元から離す能力者が異様に多い―多過ぎる様に思われる。
クラピカを例に考えるが―実際には「律する小指の薬(ジャッジメントチェーン)」を使った相手には死なれているか除念で外されているものの―その目的は旅団を殺すことではなく捕らえるこである。
しかし、ただでさえ4種類の鎖を鎖を具現化していてそれにAOP(メモリ)を割いてしまっているのに、捕縛した旅団員が増えれば増えるほど具現化し続ける「律する小指の薬(ジャッジメントチェーン)」は増えて行くと、自由に使用できるオーラ(fAOP)が減り、メモリ不足に陥る可能性は高くなってしまう。
敵はA級賞金首である幻影旅団。
クラピカも万全の状態で戦える様に備えるハズで、そのカラクリがオーラ=容量(メモリ)の外在化、すなわち放出系能力なのではなかろうか。
◆アイザック=ネテロ
ファンブック等では“強化系能力者”とされている様だが、
その最終奥義たる「百式観音」の「零の掌」から“放出系能力者”かと思われ、壱~九十九の掌の百式観音はAOP型、零の掌はEOP型かと考えている。
その理由について。
オーラが術者から離れると放出系の威力・精度で減衰が入ると考えるならば、それだけでネテロ=放出系と言えそうだが私の読み方だともうちょっと探る必要がありそうだ。
まず、基本的に「百式観音」はネテロが実際に祈りの所作をするとネテロの背後に観音が出現し、
ネテロの手の動きにリンクする様に観音が敵を攻撃する能力の様だが、
九十九の掌においては、ネテロが手を「99」の形にするだけで観音像がラッシュ攻撃をしているため、実際の動作もしくは型のサイン(?)で観音像を動かせるか、“祈りとは心の所作、心が正しく形を成せば想いとなり、想いこそが実を結ぶ”ともあるため、実際にはネテロ自身が動かなくても“正しく祈っていれば”、観音像は出現+攻撃可能なのかもしれない。
同系統の能力であろうカストロの「分身(ダブル)」が特定の動作なくして出現+攻撃をしているため、「祈り+同じ行動(or型のサイン)」をする方がネテロの考え方や戦いの姿勢に合致して、より強い念となっているのかと思われる(恐らく制約と制約ではない)。
この時点でわかるのは、観音像の描かれ方(輪郭線が実線)から観音像は具現化物で、観音像を自在に動かしていることから操作系能力も用いており、アクティブ状態と非アクティブ状態を繰り返す様子から恐らくAOP型の能力かと思われる。
しかしながら問題は「零の手」である。
まず、起点として実際の祈りの所作を必要とせず、「壱~九十九の掌」ではネテロの背後に出現していた観音像は敵の背後に出現する。
そして“有無を言わさぬ慈愛の掌衣でもって対象を優しく包み込”み、精神統一の業を経て蓄積したネテロの渾身の全オーラを目も眩む恒星のごとき光弾に変え撃ち放つ無慈悲の咆哮を放つ、というものだ。
順番に考えていく。
まず「壱~九十九の掌」と同様に元から実際に祈りの所作を必要としないかは不明確。
ナックル戦いでのゴンでさえAOPの10倍程のPOPがあり―零後のネテロの様子から―AOPとPOPの全て一度に使役するという特殊性が見受けられ、「実際に祈れなくなってから(どちらかの手を失ってから)」という制約と制約があってもおかしくない様な気もする。
しかし、ネテロの求めた“武の極み”が“敗色濃い難敵にこそ全霊を持って臨む事”であることを考えると、相手の能力の性質や状況によっては死ぬ前に手を失わない可能性もあろう。
そのため“心が正しく形を成せば想いとなり、想いこそが実を結ぶ”という言葉の通り、腕の有無や実際の祈りの所作の有無に関わらず発動可能かと思われる。
次に敵の背後に出現する点。
壱~九十九の様に、ネテロの後ろから現れて相手を包み込むのではダメなのか。
零を使う相手は難敵であろうことから、壱~九十九が全てネテロの背後に出現することを相手に印象付け、零が相手の背後に出現させることで油断を誘うため?否定は出来ないものの、どうもネテロっぽくない気がしてしまう。
そもそも相手の油断を誘うためだとすると、百式観音がまるで相手に通用しないことを想定してしまっている様に思われ、それは自らの念に悪影響しか与えない様に思われる。
自分に付けていた観音を、相手に付けた(憑けた)?
続いて有無を言わさぬ慈愛の掌衣でもって対象を優しく包み込む点。
ネテロの全オーラを凝縮して弾とするまでは、壱~九十九に比べてると時間が掛かり、それまで敵を逃さないため?
また「有無を言わさぬ」と「慈愛」の不一致さも気になる。
ただ、これはネテロレベルの武道家ゆえのチグハグさなのかもしれない。
敗色濃厚な難敵に全霊をもって臨むことを願いつつも、強くなり過ぎた結果そんな相手がいなくなって行った半生。
H協会会長という立場上、若い頃の様な無茶もできない。
そんな中、漸く現れた自分の全てをぶつけられる相手。
ネテロが抱く想いは一方的な感謝なのかもしれない。
もし自分を心の底から楽しませてくれる様な相手に出会ったらという夢想の末に生まれたのは、相手への一方的な熱い抱擁、すなわち有無を言わさぬ慈愛の掌衣なのだろうか。
しかし、一方でネテロは相手を殺すつもりで零を放っているだろうから、相手につけた観音は相手に捧ぐ棺桶代わりなのかもしれない。
1つ疑問なのは、零は相手を包んだ掌ごと攻撃しているのかどうか。
ドッヂボールでのキルアの手の様に、あれだけ硬いメルエムを何百と叩いても自壊している様子のない観音像の攻防力を考えれば、観音の掌は零の攻撃力を減衰させてしまう気がする。
これまでは弾を放つ瞬間に慈愛の掌衣が―敵が逃げられない程度に―多少開いてその隙間に打ち込んでいるのかとも思ったのだが、暫定37巻(No.386)にて、
“放出系の攻撃ならば物理的な障壁をすり抜ける事も難しくはない”
と言われているし、これまで様々な具現物や念獣が物体のすり抜けをしているので、弾の方が掌をすり抜けているでも、掌が弾をすり抜けているのどちらでも通るのかもしれない。
個人的には全身全霊を込めた零の“弾”の方は“すり抜ける分のエネルギー”に使うぐらいならより純粋な威力を高めるだろうから、零の掌の方がすり抜けているかと思われる。
次は観音像の表情について。
零の方は状況的に描写が少な目ではあるが、壱~九十九の観音が無表情で血(?)の涙を流しているのに対して、やや微笑んでいる様に見え涙も流していない。
カストロの「分身(ダブル)」が通常の自分を再現するため戦闘中にできた汚れまでは再現できず、具現物が大変なイメージ修行の末に生まれることを考えれば、基本的には具現化物の姿に差は生じないハズである。
そのため姿に変化があれば、それは元々組み込まれたものなのではないだろうか。
つまり、少なくともネテロの中で「壱~九十九」と「零」との間には何らかの違いがあると思われる。
そうしてネテロの渾身の全オーラを目も眩む恒星のごとき光弾に変え撃ち放つについて。
オーラ=生命力であること考えると、
零を放った後のネテロは正に全オーラを使い切ったか様な姿になっている。
そして“目も眩む恒星のごとき光弾に変え”という表現だが、文字通りに捉えてしまうと変化系とも読めそうだ。
音を置き去りにしたネテロが求めた次の段階、というより元々の目標地点が“光の速さ”で、速度が増せばその分威力も増すため、ネテロが追い求めたとしても違和感はない。
ネテロ=変化系能力者だとすると、系統的にその隣りの具現化系を用いることにも繋がるし、普通、念弾はEOP化して放つものなのだろうが、零の様に全オーラを用いる技ならば、放った後のことを考える必要ない。
つまり零=AOP状態で撃つ念弾で、AOPに残りの全POPを顕在化できるほどのメモリの極大化は、制約と制約の効果と考えればいい。
例えば、カイトの能力の様に―
零はネテロがピンチに陥った時にしか使えないとか、
はたまたフィンクスの「廻天(リッパーサイクロトロン)」の様に―
観音で敵を殴れば殴る程に最大メモリ(最大AOP量)を増すなどの効果があったならば何となく通りそうな気もする。
ただ特に後者の場合、音速を超える速度で王を殴っても自壊しない硬さを持つ掌の攻撃を数十発でも食らって生きて居られる者が果たしてどれだけ居るのか。
何発当てれば全オーラを顕在化できるのかは不明だが、逆にこの制約と制約だと零は打てないのではなかろうか。
また、零後のネテロの様子に違和感が残る。
自身最強の一撃を与えても倒せなかった相手にそれをやる必要はないものの、AOP型の観音を解除すればその分オーラ(生命力)が手元に戻ってくるのではないだろうか。
またそれが出来てしまうなら、零=全身全霊を懸けた渾身の攻撃という言葉からも少しズレてしまうのではないだろうか。
つまり、観音像に用いたオーラは回収できるものではない=それすらも零に用いていると考えた方が合致する様に思われる。
一応最後に。意外に一致していなかった様に思われた零の攻撃について。
“一撃”なのか、“連撃(浴びせ続けている様な攻撃)”なのか。
地下空間で撃ち音が響いてる描写があり分かり辛くなっているのだろうが、“渾身の全オーラ”を“複数の光弾”で放っていることにも違和感がある上、
零を受けた王の言葉からも、渾身の全オーラを込めた一撃なのかと思われる。
ここで根本的な疑問に振り返る。
具現化物は一定程度のAOPを割く費用があるため攻防力のバランスが悪くなりやすく、神懸かったものは具現化できない上、かと言って実在するものをそのまま具現しようとしても有効な武器にはなりにくいため、相手に作動する何らかの「しかけ」を設ける事が多い。
しかし、ネテロの百式観音はどうなのだろうか。
零を除いては直接的な打撃のみで、メルエムに対して千を超える攻撃を加えたにも関わらず何か「しかけ」が作動している様子もない。
ネテロ=変化系と捉えた場合には攻撃の度にメモリの最大値を上昇させるというようなしかけがあるかもしれないとは読んだものの、自らの力を増すバフだけでなく、相手を力を下げる様なデバフの様な「しかけ」を設けない百式観音で殴り続ける理由はなんなのだろうか。
またメルエム戦いでのネテロは少なくとも120歳以上ですから肉体のピークは当に過ぎているでしょうし、仮に壊されても再度具現可能な百式観音の強みはあるのだろうが、山から下りてきた頃のネテロならば、ネテロ自身が殴ればいい様に感じる。
さらには“いつ”から百式観音を具現させたかは不明だが、どうも壱~九十九が涙を流す観音像による直接攻撃を用いる理由と、その奥義が晴れやかな観音像による間接攻撃である点が上手く繋がらない。
恐らく理由は単純明快で、ネテロが“根っからの武道家だから”という事かと思われる。
変な「しかけ」を厭い、単純な打撃での戦いを好んだものの―自らの系統が強化系ではないからこそ―同じレベルの強化系能力者には勝てず、
己の肉体と武術に限界を感じ悩みに悩み抜いた。
(この時のネテロがお忍びで暗黒大陸に行く前か後かは不明だが、ネテロの周囲に描かれているオーラ描写や、ネテロの周囲だけ積もっている雪が解けているためこの時点でのネテロは念を習得済みだと思われる)
つまり血の涙を流す観音像は、恐らく過去のネテロ自身なのだと思う。
そして、恐らくネテロが追い求めていた理想は、
『一撃必殺』
そして、それに自らの全身全霊(全オーラ)を懸けること。
しかし一方で、一撃に全てのオーラを用いることができたとしても、威力・精度の観点から実質的に可能なのは自系統のみ。
さらに、それをやってしまえばそれ以降は何も出来なくなってしまう。
敗色濃厚な難敵にこそ最終手段としてそれを使いたいものの、相手の能力の見極めや様子見の過程でオーラを多く消費してしまえばその分威力を下げてしまう。
そしてそれを全て解決したのが百式観音で、涙を流していない観音像はネテロが目指し行きついた“理想”なのではなかろうか。
零の掌とは、元々AOP型の観音像をEOP化(放出系能力でメモリから切り離し)して相手に憑け(相手への手向けでもある?)、自らのオーラの全て(AOP→EOP+POP→AOP→EOP)を観音像に託し、それを観音像が凝縮して敵に撃ち放つ―自らの全身全霊を懸けた一撃必殺―放出系の正拳突きだと思われる。
ネテロが生涯において零を放ったことが何度あったのか、それはわからない。
しかし、人生の最期で出会った零でさえも倒しえない強敵へ送るモノが讃辞ではなく人間の底すらない悪意であったことに、ネテロはどのような想いだったのだろう。
「武道家として矜持」を超えた「ハンターとしての責任」なのだろうが、それを考えると胸に熱いものが込み上げてきてしまう。
以上。
→3:操作系能力に続く。